90年代当初、政府は社会保障後退政策をつよめるなかで、市町村に対して「老人保健福祉計画」の策定を義務づけてきました。これを受けた市町村の多くでは、財源や人員体制もあいまいなままに作業がすすめられ、計画策定段階での住民参加も不十分な状態に置かれていました。 民主的な、計画策定にしていくための運動が全県的に求められていました。地域医療、地域福祉をめぐって、住民の切実な要求が山積していました。 しかし、関係団体の現状をみると、個々の問題ごとの陳情や要請にとどまっていました。市町村に住民生活を守るという基本姿勢をただし、要求を系統的に提示していく共同の行動が求められていました。各地でこれに向けた模索もはじまっていました。 県段階では、医療や福祉分野での共同の対県交渉や高齢者運動の前進など、各分野での共同行動が開始されていました。92年春、県春闘共闘、国民医療を守る共同行動、くらしと福祉・地方自治を守る共同行動の三者が「社会保障討論集会」を開催するとともに、全県的な「世直し共同署名」にとりくみました。こうした運動を契機に、社会保障・福祉の拡充の共同行動が大きく前進し、埼玉社保協設立への機運がつくりだされていきました。 93年2月、22団体の参加で「埼玉社保協準備会」が結成されました。「準備会」は、この月に、「社会保障討論集会」を開催し、21団体61人が参加しました。また、県内4ヵ所で団体代表者会議を開催し、参加した12団体78人を通して、地域に社保協結成の意義が浸透していきました。 準備会の役員は、県内の福祉・医療の主要団体の諸行動に参加するとともに、中央社保協行動や会議にも積極的に参加していきました。 6月には、県内60市町村に対して「社会保障・福祉の拡充を求める地域連鎖行動」が組まれました。3日間、15コースに分かれて延べ24団体・667人が参加しました。この連鎖行動は、県段階のキャラバンと結合して継続した地域の共同行動を推進する契機になりました。同時に、市町村が住民要求と国の指導との関係で大きな矛盾を抱えている事が浮きぼりになりました。 こうした具体的な行動を積み重ねるなかで、93年6月24日、埼玉社保協が結成されました。
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